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歴史

「日本史」を選択するまで

四月下旬に歴史散歩というイベントを開催しました。
生まれて初めて自分で企画を立てて、イベントページを作ったり告知をしたり
事前に下調べで大量の資料を集めたり、下見も何度かしました。
ありがたいことに、友人たちがライブ配信をしてくれたり、面白いアイデアを出してくれて
イベントは無事成功で終わりました。
私は説明でいっぱいいっぱいだったけど、でもアウトプットしてる瞬間がすごく楽しくて、
協力してくれた友人や参加者の人たちに感謝でいっぱいです。

いろんな資料を読み込んだり集めたりしながら、ふと合間合間に考えることがありました。
「私はなぜ日本史が好きになったんだろう」って。
家族の影響かと思ったけど、家には歴史好きは誰もなく、
いろいろ本はおいてあったけど歴史書はなかったように思います。
唯一歴史が好きだったのは母の叔母にあたる方でした。
その当時の人には珍しく大の海外旅行好きで、年に一度か二度は
長期の休暇をとってオーストラリア、エジプト、アラブ諸国、ヨーロッパを旅していました。
今ではいけないであろう紛争地域にも足を運んでいたと思います。
私は叔母が撮ってきてくれたたくさんの写真にくぎ付けでした。
エジプトのピラミッドだったり、ギリシャの神殿だったり、
「世界にはこんなに古いものが残ってるんだ」と衝撃でした。
私がピアノを練習しているころには、モーツァルトの生家の写真をとってきてくれたり、
古いピアノや、教会のオルガンの写真をとってきてくれました。
世界の歴史おもしろそうだな、って漠然と思ってました。

でもある時出会ってしまったんですよ。
小学五年生の見学旅行で県内の古墳巡りをするわけです。
中でも江田船山古墳というものが熊本には残ってまして、
そこからは大量の装飾品と文字の入った鉄剣が見つかったときいたときの衝撃。
しかも国宝。
「日本にも古い歴史あるんだー!!」って
しかも文字入りの鉄剣なんてカッコイイ!!
と、変なところが気に入ってしまった^^;;

それから日本の縄文時代から弥生、古墳時代が好きになります。
うちでとってた新聞の「〇〇遺跡から出土」って記事をみるたびにスクラップしてました。
変な子供でしたね^^;;

一方ピアノもずっと続けて吹奏楽もずっと続けてて
高校に入ったときには、音大に進むつもりで勉強していました。
でも、心のそこで迷ってたんです。
音大に進んだとしても自分の実力で、音楽では食べていけないなと感じていました。
高卒で就職してもいいけど、何になろう?
大学いける能力があるなら、音楽以外で何を勉強しよう?

迷ってたときに、また出会ってしまったんですね。
日本史の先生に。
この先生がまあ面白くて教科書通りに進まない。
授業始まっても話の脱線は毎回のことでした。
ニュースをみる新聞をみる、気になった記事の話から歴史をからめて話をするわけです。
この先生大丈夫かしらと思うけど、話が面白くて引き込まれます。
その年の夏、その先生から大きな課題が出ます。
「夏休み中に歴史をテーマにして一つ調べものをしろ」と
めんどくさいなー、でも面白そうだなーって気持ちが交錯してました。
何を調べようかと迷いながらもピアノ教室に通う日々、熊本城が目に入ります。
「そうだ、熊本城調べよう」
早速辞典で概要を調べます。
でもなんだか概要だけでは面白くないので詳しく調べてみます。
熊本城には「櫓門」が多いことに気が付きました。
「よし、熊本城の櫓門だけに絞って調べよう」
図書館だけではあきたらずに、熊本城まで出かけて櫓門跡を歩いて探します。
今の熊本城外にも門あるよ、という母の情報をききつけ、そこまで行きます。
遠縁に郷土史家がいることを知り、できる限りの資料をいただきます。
で、夏休みラストスパートでレポート用紙にして40枚近い課題を出しました。
課題を出して数日後、日本史の先生に呼び出されます。
「なにしたっけ? 怒られることしたっけ?」
びくびくしながら、先生の所にいったら・・・
「おまえの課題すげーなー。櫓門がこんなにあるなんて俺もしらんかったよ」
ほめられました。しかもそれが功を奏したのか、二学期の日本史の成績が恐ろしく上がりました。
「もしかして、日本史にむいてるのかなー。やってみようかなー」
そして、音大をやめて日本史のある大学を探すこととなります。

私が日本史好きになるまでの過程はこんなところでしょうか。
急きょ進路を変更することになった親は衝撃だったと思います。
でも、大学卒業後、司書としてスタートしたことを喜んでくれたし
今回のイベントも「成功するように祈ってるからね」と手紙をくれたし
今でも応援してくれてるのだなとありがたいです。

なんだかだらだらと書いてしまいましたが
人生における「出会い」って大事だなと思います。

余談ですが、日本史といっても戦国とか幕末とか苦手なんですよ^^;;
得意な時代は偏ってます^^;;


千葉県立房総のむら



今日は千葉県立房総のむらに行ってきました
江戸時代の街並みを再現したり移築して、一部はテレビドラマのロケにも使われているそうです。


江戸時代の名主農家の屋敷です。
懐かしい田舎の景色。
電柱一本なく、昔にタイムスリップしたかのようです。
でも私の目的は建物ではなく…


これこれ、古墳です。
房総のむら周辺は古墳が非常に密集した地域で、
「龍角寺古墳群」と言われています。
全部で100基以上あるので見て回るのが大変

円墳、方墳、前方後円墳とありますが、前方後円墳には
前方後円墳の形をすた看板があり、ちゃんと周囲と高さが書かれていて親切です。
登っちゃダメだし、全体図がわからないので、こういう看板はありがたい。



こちらは私がどうしても見たかった日本最大の方墳
「龍角寺岩屋古墳」(105号古墳)です。
一辺が78メートル。高さは13.2メートル。
しかも三段に築かれていますから、まるでピラミッドのようです。
方墳のまわりには周溝があり、説明板によると堤もあるそうなので
全体像はもっと大きいです。
こんな大きな方墳初めてみました。しかも千葉にあったなんて!!
なんでもこの龍角寺古墳群、全体のほんの少ししか発掘調査が進んでなく
この大きな岩屋古墳でも出土品がなく謎だらけ。



中世近世にも信仰や言い伝えがいろいろあったようで
古墳の周りには庚申塔(文久元年だったので1861年)や青面金剛像、不動明王とおもわれる石像がありました。

全部見切れなかったのと、このあたりにはまだ古墳群があるようなので
またチャレンジしたいと思います。

房総半島の歴史を考える

富津市の古墳めぐりをした帰り、富津岬に寄りました



日没前でしたので、夕日がきれいでした。
映っているのは富津岬展望台。明治百年記念展望台が正式名称だそうです。

実はここを訪れたのにもわけがあります。
またまた市民講座の話題になりますが、
縄文時代は、黒潮に乗って打ち上げられた珍しい貝が物々交換の材料として遠くは北海道まで流通し、
古代では「古代東海道」として船で房総半島に上陸し東北まで北上するという重要な道が通っていました。
私の中には「本当に珍しい貝や石は海岸に打ち上げられるのだろうか」という疑問があり、
砂浜に打ち上げられた貝や石を見て回りました。
その結果がこちら↓



貝の種類には詳しくないので、なんともいえませんが、右側の大きな貝殻、
この地域ではまず見られないような大きな貝殻です。波の影響でかなり削られていたのが残念。
でも、花崗岩も打ち上がっていましたし(最近の人工物かもしれませんが)、
輕石もかなりの数がありましたので、
黒潮に乗って南のほうから珍しい石がやってくるのはわかりました。



もう一つの疑問は「三浦半島」です。
1180年治承・寿永の乱がおき、源頼朝は平家の軍に負けて敗走します。
この時頼朝は三浦半島から房総半島にわたり、千葉常胤のもとに助けを求めます。
縄文時代より船の技術は発達してるけど、本当に頼朝は房総半島に渡ったのだろうか?
それを自分の目で確かめたかったのです。
画像では見にくいかもしれませんが、うっすらと三浦半島が見えます。
天気がよければもっとはっきり見えたでしょう。当時の人たちは今よりももっと視力がよかったはずですから
三浦半島から房総半島をきれいに見たはずです。
この日は波がずいぶん荒れていましたが、天候や時間帯を選べば渡るのは可能だと感じました。

まだまだ未知の部分がおおい時代が多いですが
本で読んだり、講座で学んだことを、実際に動いてその当時の人の気持ちになって感じてみる。
本を読むのとは、また違った経験ができます。体で感じるって大事です。

富津の古墳をめぐる

先週の土曜日、富津市までお出かけしました。
先日きいた加曾利貝塚のシンポジウムできいたことを確かめたかったのと、
家人が「富津にはすごい古墳群があるぞ」と教えてくれたからです。


上の地図、黄色い星マークのついたところが自分の足でみてまわった古墳です。
国指定の内裏塚古墳を中心にまわってみました。
近距離にたくさんの古墳が密集しているのがわかります。
実は、この他にも富津にはたくさんの古墳が残っていて、
今回見たのは現存する古墳のうち三分の一ぐらいです。
総称して「内裏塚古墳群」呼ばれています。




古墳といっても、大きいものから小さいものまでいろいろありますが、
富津の古墳は大きいです。前方後円墳なんて「ただの山」にしかみえないです。
一応古塚古墳を遠くから撮影してみましたが、こんもりとした山というか森というか
たとえるなら「トトロの森」でしょうか^^;;

富津の古墳群は生活の中に古墳が存在していて「観光地化」されていません。
中には大きなお屋敷の中に古墳があり「見学不可」と書かれた看板もありました。
悲しかったのは、上記の写真の古塚古墳。
すぐ近くまで行きましたら、なんと古墳のふもとに大型の粗大ゴミが積んでありました(涙)
これだけたくさんの古墳があるのに、大事にされてるものもあれば、
ゴミ置き場になってしまっているものもある。
複雑な気分になってしまいました。

とことこと歩きながら、国指定の内裏塚古墳をめざします。





登っていいのかしら、とみたら、明らかに人の歩いた道ができてます。
国指定の古墳なのに整備されず草ぼうぼう^^;;
私、生まれて初めて前方後円墳へ登ってみることにしました。



内裏塚古墳は千葉県内最大の前方後円墳で、長さは144メートルあります。
発掘は1906年におこなわれ、二つある石室から二体の人骨と鉄製の武器類が出土しました。
ただ明治の発掘調査のため、詳しい調査の内容は不明です。
出土品は国立歴史民族博物館に収蔵されているそうなので、ぜひみたいところです。
発掘を記念して、後円墳の部分に石碑が建てられていました。
でも、本来なら作られた当時の形を残すためにも、石碑建てるのはどうなんだろう、と思ったり・・・。
発掘調査はもちろん大事ですが、後世に大切な史跡を残すためには、
もっと整備し「千葉にもこんな立派な前方後円墳」がたくさんあるんだよ。大阪と奈良だけじゃないんだよー」と
アピールするのも大切だと思うのです。
市原市の学芸員さんが「博物館が作れなくて」とおっしゃってたので、富津のの財政は
もっと厳しいのかもしれません。
でも、地方活性化のためには古墳や文化財にも予算を出していかないと魅力のある街づくりはできないし
人も集まらない。文化財も整備しなければ朽ちていくだけですから守らないといけない。
大昔に作られたものを再生するのは現代の技術をもってしてもかなり難しいです。
古墳の上から富津の景色を眺めながら
「新しいものにお金を費やすのも必要だけど、古いものにも目をむけて大事にしないといけない」
と思った次第です。



千葉はいいところです。野菜や果物も多いし、千葉県の遺跡数はなんと全国三位です。
古代東海道の要衝として発達した上総地方の文化財。それを生かせる方法はないものか。
と、夕焼けに染まる富士山を見ながら思いました。

縄文時代の物流を考える

先日千葉市生涯学習センターで開催された
「加曾利貝塚シンポジウム」に参加してきました。
加曾利貝塚だけでなく、周辺にある市川や市原市の貝塚を例に講演がひらかれたのですが、
話題が進むにつれて貝塚というより、縄文時代の物流ルートがどうだったのかという流れになっていきました。

千葉県では縄文時代、矢じりや斧の材料となる石が極端にとれない地域でした。
それらの石材を入手するために、加曾利貝塚で「干し貝」を作って交換していたというのが
これまでの通説だったのですが、ここ数年干し貝加工説が違うのではないかと検証されているようです。
では、千葉では貴重だった石材と一体何を交換したのか、というのがこれからの課題のようですが
この石材を専門に研究してらっしゃる方のお話しをきくと、加曾利貝塚から出土する石。
遠くは日本海側の糸魚川周辺んから採取される石と成分が同じなんだそうです。
そして黒曜石に関しては、伊豆の神津島から運んできていたのだと。
陸路に関しては村から村へと運ぶことができたでしょう。
でも、海路は? 縄文時代の船といえば丸木舟ですが、重い石材をのせて陸地へ運べるだけの船はどういったものだったのか? これが不思議でなりません。
黒潮に乗って北上するとか、夜は星の動きを読みながら方角を決めていたとかなのかなぁ、と
考えられるのはこれかなあ。

今回初めて知って驚いたのは、加曾利貝塚の発掘調査はまだ7パーセントしか進んでないそうです。
7パーセント発掘してすごいのが出たのに、残り93パーセント発掘調査できたら、何がでてくるのだと
嬉しいような怖いようなワクワク感です。

加曾利貝塚は国指定の特別史跡指定を目指して現在運動中です。
ぜひとも発掘を再開して、物流にかぎらず、もっと新しいことがわかればいいな思います。

視点が違うと面白い

昨日は千葉市生涯学習センターで開催された「千葉市遺跡発表会」に参加してきました。
昨年千葉市内で発掘された遺跡の中から、注目される三つの遺跡について説明をききました。

三人の先生の発表をききながら、私はメモしたりたくさんの疑問と格闘していました。
頭の中は「なぜ?」だらけでした。
ところがこの日、私は家人と一緒に発表会をきいていたのですが、帰宅してからきいた家人の感想はシンプルでした。

「技術革新が人の生活を豊かにする」と。

五世紀から六世紀にかけて、大陸から新しい技術が伝来しました。
「製鉄技術」「須恵器」「馬」、この三つです。
「製鉄技術」がきたことで、これまで木製の農具から鉄製の農機具が誕生しました。
「須恵器」の登場は、野焼きで作っていた土器が窯焼きで大量に規格化されて作られたことを意味します。
「馬」の伝来は、それまで徒歩しかなかった陸の移動手段を馬を使って速く移動できることになります。
この発表をされた先生は「この三つのおかげで、農作物の生産率が上がり効率化され、この時代から千葉の遺跡には人が増え、住居跡が爆発的に増えたのだろう」と推測されていました。

家人の職業は技術屋です。普段はパソコンやサーバーと格闘しながら仕事をしているようです。
それで家人はITの技術革新と大陸の技術伝来を重ねて話をきいていたのかなと思います。

私は歴史をずっと勉強していましたから、様々な歴史の出来事と比べたり、地域史を思い出しながら発表会について歴史的な感想を出しますが、
職業が違う人が歴史の話をきくと、こうもきくところが違うのかと面白かったです。
私はまだまだ視野が狭いなあ、もっと現代と結び付けて歴史を探求するというのも考えないといけないなと思った次第です。

千葉妙見社から見る千葉氏と原氏

昨日は市民講座で千葉妙見社(千葉神社)のと千葉氏のお話しをききました。
千葉氏を知ったのは大学に入ってから。
鎌倉幕府の成立に大きくかかわった千葉常胤が最初でした。
この千葉常胤が現在の千葉県に関係あるんだろうなとはぼんやり思っていたのですが
昨年が千葉常胤がこの千葉市に町を開いてちょうど890年という記念の年というのを知り、
千葉一族について、どういう歴史があったのかますます知りたいと思いました。

まず、千葉氏と深いかかわりがある千葉神社、今は神社ですが
千葉氏がくる以前から妙見信仰があり、「金剛授寺」というお寺だったそうです。
その寺の中に稲荷大明神があったり、八幡様があったりと寺と神社が一体化していた
信仰施設だったそうで、寺と神社が一緒の敷地にあるなんて、日本ならではだなと妙に感心してしまいました^^;
一応「金剛授寺」ですからお寺の偉い座主という人がいるわけなのですが
これになる方は千葉一族の二男や三男がその職務についたそうです。
実際に千葉一族の家系図をみると、二男か三男が座主の職についています。
しかし、南北朝、室町期に入ると、一族内での抗争や千葉氏の流れをくむ原一族の台頭で
千葉氏は衰退していき、千葉氏の嫡流が途絶えます。
金剛授寺の座主も千葉一族からではなく、とうとう原氏の一門が座主につくことになるのです。

戦国末期、徳川家康が関東に入り、金剛授寺を参詣し寺領を安堵されたことで
江戸末期まで「北斗山金剛授寺尊光院」として発展してきたのですが
明治の神仏分離によって寺から「千葉神社」と名前を改めたのだそうです。

今はずいぶん小さな敷地になっているようですが、こんなに長い歴史と変遷を持った
神社とは知らず、今回の市民講座は衝撃でした。
行けるけど「また今度」で素通りしてきた千葉神社、今度千葉氏の館があった亥鼻付近もあわせて
探検してみようと思います。


歴史はたえず変化する

今回も先日のトークライブの補足的なお話しです。

昔学校の授業でならった日本史、
人物の名前を覚えたり年号を覚えたりとしましたが、
現在日本史の新たな発見が増え、解釈もずいぶんと変わりました。



たとえば、この上の写真の「源頼朝」とされている肖像画
専門家の研究で「本物かどうかが疑われる」ということで
今この肖像画を紹介するときには「伝 源頼朝」となっています。
「頼朝の肖像画と伝えられているが真偽は定かではない」いうことです。

頼朝に関連して、昔は「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」で覚えたことと思いますが
現在の鎌倉時代の始まりは1185年となっています。1192年は確かに頼朝は征夷大将軍として
任命はされていますが、1185年には平家を滅ぼし、各地に守護地頭の設置を任じていて、
実権を握っている。このことから最近は1185年からが鎌倉時代と考えるのが定説のようです。

あとは日本最古の貨幣「和同開珎」は新たな発掘調査で「富本銭」という和同開珎より20年以上
古い貨幣が大量に発見され、現在では「富本銭」が日本最古の貨幣となっています。

このように、日本の歴史(世界史もだと思います)は、日々新しい発見があるたびに
これまで定説と考えられていたものが大きくかわることがあります。
歴史とは「こうだ」と一生決まっているものではなく、常に生き物のように動いている学問です。
今日も幕末の志士坂本竜馬の暗殺五日前の手紙が発見され、話題となっていました。
これからもどのような発見があるのか、またどのような定説が覆されるのか
注意して見守りたいと思います


司馬遼太郎『街道をゆく』



先日のトークライブ「歴史でおすすめの本は」と質問をいただいたので、
この『街道をゆく』を紹介しました。
歴史というより、紀行文といったほうが正しいのかもしれせんが、
司馬遼太郎さんが日本各地の街道、世界の国々を旅してまわりながら
歴史について、その町のエピソードについて、人物について深く深く掘り下げて書きあげている
素敵な作品です。
一冊で三冊分おいしい、といっても過言ではない本です。

この『街道がゆく』シリーズは、1971年に「週刊朝日」で連載が始まり
1996年2月に作者が急逝するまで続きました。
現在では朝日文庫から全42巻で出版されています。

私が好きなのは第5巻「モンゴル紀行」です。
このモンゴル紀行が書かれたのは1973年。ロシアがまたソビエト連邦時代。
冷戦の真っただ中でのモンゴル行きです。
今のように日本からの直行便はありません。
日本で唯一航路のある新潟空港からソビエトハバロフスク→イルクーツク(ここでビザが発行される)→モンゴル
という、今では信じられないようなルートでモンゴルへ入らなくてはならないのです。
タイトルは「モンゴル紀行」なのに本の3分の2はソビエト地域の話になっています(笑)

1973年の日本からモンゴルへの旅
2017年の日本からモンゴルの旅
およそ40年の間にソ連は崩壊し、そして日本の飛行機はもっと自由に世界を飛べるようになった。
このギャップを思い知ることができる。40年間の日本とソビエトの歴史がわかってしまうのです。

このシリーズは書かれた当時の地方の生活や歴史も知ることができる
民俗学的な側面も持っています。
「歴史、紀行」でひとくくりにはできない司馬遼太郎の知識の塊のような文章が
ギュッと詰まった良書です。

フォト

まおれん成長アルバム2003

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    とこはるの家にやってきたまおとれん。 家に迎えた瞬間から2003年12月までの写真記録です。

まおれん成長アルバム2004上半期


  • ちょっぴり大きくなったまおれんの写真集。 初めての寒い冬を体験しました

まおれん成長アルバム2004 下半期

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    一歳の誕生日をむかえたまおれん すっかり大人の顔になりました。
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